スクロールの終わらなさについて

要点
- 終わりのないスクロールは偶然の産物ではなく、滞在時間を延ばすために設計された仕組みだ。
- 「終わり」が見えないことが、やめる判断のきっかけそのものを奪っている。
- ただし無限スクロール自体に罪があるのではなく、それが既定値として使われている点が問題だ。
- 区切りを自分の側で作り直すことが、終わらなさへの現実的な対処になる。
気づけば親指が動いている。読みたいものがあったわけでもないのに、画面は下へ下へと流れ、底に着くことはない。この「終わらなさ」は、利用者の意志の弱さの表れではない。終わりが来ないように、初めから設計されているのだ。
終わりを消すという設計
かつてのページは番号で区切られ、最後の項目まで来れば「次のページへ」という明示的な操作が必要だった。その一手間が、やめるかどうかを考える区切りになっていた。無限スクロールは、この区切りを取り払った。考案者の一人とされるアザ・ラスキン氏自身が、後にこの仕組みが人々の時間を奪っている面を認め、設計を悔いる発言をしている。終わりを消すことは、やめる判断のきっかけを消すことでもあった。
仕組みそのものは悪か
とはいえ、無限スクロールという技術自体を悪と決めつけるのは早い。地図を眺めるときや、長い記事を読むときには、ページの分断がないほうが快適な場面もある。問題は技術ではなく、それが「迷ったときの既定値」として、あらゆる画面に無批判に採用されている点にある。区切りが要る場面にまで、区切りのない設計が持ち込まれている。
区切りを取り戻す
設計を変えられない以上、区切りは自分の側で作るしかない。時間を決める、件数を決める、あるいは読み終えたら一度画面を閉じると決める。どれも素朴な方法だが、外から与えられない区切りを内側に置き直す点で共通している。ハーバート・サイモンは半世紀前、情報が増えるほど注意は希少になると述べた。終わらないスクロールは、その指摘がもっとも素直に現れた形といえる。ホーム画面を空にすることやデジタル余白の発想は、いずれもこの「区切りのなさ」に対して、自分の手で終わりを引くための試みだ。
出典
- Herbert A. Simon「Designing Organizations for an Information-Rich World」(情報と注意に関する論考、1971年)
- Aza Raskin(無限スクロールの設計とその後の言及に関する報道)