「間」と余白——日本建築とインターフェース

要点
- 日本建築の「間」の概念と、画面インターフェースの余白を比較して考えた。
- 「間」は空っぽの空間ではなく、要素と要素の関係を成り立たせる積極的な働きを持つ。
- ただし、建築の間をそのまま画面に持ち込むことはできず、時間軸という違いを踏まえる必要がある。
- 画面の「間」は、配置の余白だけでなく、操作と操作のあいだの時間にも宿る。
日本建築を語るとき、しばしば「間」という言葉が使われる。柱と柱のあいだ、部屋と部屋のあいだ、そして音と音のあいだ。間は単なる隙間ではなく、要素どうしの関係を成り立たせる空間として理解されてきた。この概念は、画面の中の余白を考えるうえでも示唆に富む。
間は空白ではない
建築家の磯崎新は、一九七〇年代に「間(MA)」をめぐる展示を国外で紹介し、西洋的な「空間(space)」とは異なる時空の捉え方として提示した。間において、空いている部分は無ではない。むしろ、その空きがあるからこそ、隣り合う要素が意味を持つ。床の間の余白が掛け軸を引き立てるように、何も置かれていない部分が積極的に働く。
この見方は、画面設計における余白の議論と響き合う。余白をめぐる議論で確認した「意図して埋めなかった空間」という定義は、間の考え方とほとんど重なっている。
時間軸という違い
とはいえ、建築の間をそのまま画面へ移すことはできない。建築の間は主に空間の配置に関わるが、画面には時間という軸が強く働く。利用者は要素を一度に見るのではなく、スクロールやタップによって時間をかけて辿っていく。裏を返せば、画面における間は、配置の余白だけでなく、操作と操作のあいだの時間にも宿る。電子ペーパー端末の記録で感じた「反応の遅さ」は、その時間的な間の一例だったのかもしれない。
関係としての余白
間という概念が教えるのは、余白を「足りないもの」ではなく「関係を作るもの」として捉える視点だ。要素を減らすことが目的なのではなく、要素どうしが互いを引き立てる距離を設けることに意味がある。建築が数百年かけて磨いてきたこの感覚を、画面という新しい場所でどう翻訳するか。喫茶店の電源のない席に座る人々が空間に区切りを見いだしていたように、画面の中にも、要素を休ませる間を意図して置くことはできるはずだ。
出典
- 磯崎新「間(MA: Space-Time in Japan)」展に関する論考
- 原研哉『白』(余白と間の美学に関する論考)